愛と自由を携えて生きる

新潟生まれの新潟育ち。工場勤務兼作家志望のアラフォー女子が、 “自分らしく生きる” 事を探究する様子を綴るリアルなライフログ

サブリーダー的立ち位置の旨味

“新たな特性が登場した件”

 

今回は先々月の起業塾の場で、自分自身の近況をシェアさせてもらった際に出て来た事象を綴ってみる。

 

先月は仕事に関係する宿題だった。ちなみに今月も引き続き、仕事に関する宿題が出ている。

 

私は仕事上で “リーダー的な存在の人のサポートをする動き” を自然としている。この話をした瞬間、講師からそれは “特性” だと言われたのだ。

 

“リーダー的な存在の人” と前述したが、実際には同僚や後輩等の身近な人達をサポートする動きを自然とやっているのだ。

それは誰に言われた訳でもない。

 

“どの様に立ち回れば、チーム全体の作業がスムーズに進むか?”

そんな事を考えながら様子を観て、その時その場に最適な物を直ぐに出せる。

 

とは言え初めは作業の勝手が分からず、右往左往してかなり失敗する場面が多い。

 

次第に “あぁ…こうしたらいいのか” と気付き、すぐに対応出来る様になる。

 

私の場合は基本不器用なので、最初から要領よく器用に立ち回る芸当は出来ない。

 

その代わり、人の様子はよく観察している。

 

“あぁ…あの時はこんな行動をするのか” 等々

元々、人間観察をする事が好きで人に興味があった。

 

しかし、幼少時からの苛めが原因でコミュニケーション障害が出て来た。そして社会人になってからも、それを拗らせたままで来たのだ。

 

話が長くなったが、今回この様に新たな特性が出て来た事に、ワクワク感が止まらない。

ライヴチケット当選~セカオワのライヴ参戦を控えて~

“当選したのは9mmだけではなかった件”

 

実はSEKAI NO OWARIのライヴチケットも当選していた。来月の20日と21日の2日間、ツアーで新潟に来る。場所は朱鷺メッセ

 

規模も大きなツアーに参戦するのは初めてだ。もっともそれ以前に、SEKAI NO OWARI(以下セカオワとする)のライヴを観に行くこと自体が初めて。

 

参考までに、9mmのライヴチケットに当選した時の記事はこちらから

 

セカオワの曲に関しては、知っている曲はあるものの9mmのそれよりは少ない。(しかも格段にw)

とは言えライヴ当日まで既に1ヶ月を切っている。にもかかわらず、予習する気があまりないと来たw←おい!!!

 

肝心のチケットの引き換えも来月に入ってからだ。

 

ここまで広い会場でライヴを観る事も初めてである。人の多さに圧倒されぬ様、心を整えてライヴに臨む事とする。

 

弱くても勝てるって本当ですか?

“人生必ずしも強者が勝つとは限らないとは言うが”

 

“本当の所はどうなのよ?” と言いたくもなるのが人情である。

 

強者=勝つ←単純にこの思考に囚われ過ぎているか、だから “弱いから勝てない” と思い込んで本当に勝てなくなってしまうか。

 

“〇〇はこうすべき” “〇〇しなければならない” 等の思い込みを捨てられなければ、自分自身がキツくなるだけ。

 

人生に於いて、“絶対” と言う言葉を付けるのは個人的にあまりオススメできない。

 

ほんの少し物の見方や捉え方の違いだけで、自分を取り巻く状況がガラリと変化していくものなのだ。

 

そして気が付けば、強者と思っていた相手に優っている部分を自覚し、いつの間にか勝利を手にする事だってある。

 

場合によっては、闘わずして勝利する可能性もある訳だ。最初から競争相手がいない場合であれば独り勝ちである。

 

 そう言えば過去に(かなり前w)こんな記事を綴っていた。

bluedestiny619.hatenablog.com

 

今と比べるとかなり暑苦しさ満載な文章かもしれない。“暑苦しい” と言えば、過去にこんな記事も綴っている。 

bluedestiny619.hatenablog.com

 

 “今でも熱血キャラは健在かい? ” と自らに問いを投げ掛けてみると、ブログを始めた当初の “暑苦しいまでのレベル” では無くなったものの今でも健在だ。

 

話が逸れてしまった。

いずれにしても “思い込み” と言う物は本当に恐ろしい。同じやるなら “自分が本当になりたい方向性” で行く事が一番である。

 

 

現在の職場で働き続けるまでの “迷い” と “決断”

文章を書く事が好きな気持ちを持ちつつも、何処かの会社に就職して欲しいと言う両親の期待に応える為に、高校卒業後はビジネス専門学校の一年制学科に進学した。

 

新潟の田舎町に生まれ育ち、冬場は白鳥が飛来する土地に今も住んでいる。

“いつかこの街を出ていく” と私は物心ついた頃からそう思っていた。小学校時代からイジメに遭っていた影響が強い事もあるが、もともと地元にあまり関心を持っていなかったと言うのが一番の理由だ。

 

そして社会人になってからも、その当時の体験が尾を引いたまま自分自身を受け容れられずに30年以上の時を生きてきたのだ。

 

19歳で専門学校を卒業するまでに就職が決まらず、ハローワークに通い就職活動を続けてやっと20歳になる前に仕事が決まった。

初めの職場は地元の町工場で、デジタルカメラの部品の製造に関わっていた。

 

                   f:id:bluedestiny619:20190602114522j:plain

 

20代の頃はとにかく目の前にある課題をこなすだけで精一杯。余裕なんて全く感じられずに、毎日がいっぱいいっぱいの状態で過ごしていた。

 

いつも時間に追われて慌ただしく生きていた。

だが次第にひっきりなしに、物事に追われ続ける生活を送り続けている日々。年齢を重ねて来て自分のこの会社員生活をふと振り返ってみた時に、徐々に疲れを感じていることに気付き始めた。

 

若かりし頃は力を抜く事も知らずに、全力疾走し過ぎてほぼ満身創痍だった。基本的には性格は気分屋でかなりムラがある質だが、一度決めるとひたすらに突っ走ってしまう癖がある。

 

特に20代の中頃に転職したブラインドの製造工場に正社員で勤務していた当時、働きづめの日々だった。その職場では有給休暇がなかった。

 

当時の職場で働き始めて一年程経ってから、アレルギー性鼻炎を発症した事が判明。同時に副鼻腔炎を併発していた為、受診した耳鼻科にそのまま通院する事になった。

 

その後、耳鼻科に通院する為に早退する際は “忙しいので戻ってくる様” にと指示が来る程、毎日夜遅くまで残業している職場だったのだ、だが絶対に戻らなかった。

 

逆にこの時間を使って “ゆっくりと過ごしていよう” と思った程である。職場の人間関係はさほど悪くはなく、仕事自体にもやりがいを感じていたのだ。だがそれ故に “退職するか仕事を続けるか” 悩みもしたのだ。

 

悩んだ末にこの職場を去ると決断した。退職する旨を伝えた際、社長の息子から “社会不適合者” の烙印を押された私。

 

それから30代に入るまでは派遣社員として派遣先を転々としていた。 派遣社員時代は契約期間が終了する度に、次の仕事がいつ決まるかと心配は尽きなかった。契約期間が短い仕事が多い上に、次の派遣先がなかなか決まらず無職の期間も度々あった。そんな状況だった為に定職に就く事が難しく、貯金が底をつきそうになる経験もした。

 

派遣先は食品の製造工場での勤務が多かった、惣菜・きのこ栽培・米菓・餅。きのこ栽培と餅はそれぞれ違う派遣先で二度働いた。

食品以外では、ワクチン製造工場・ロールスクリーン製造・石油ストーブの部品製造等の派遣先で働いた経験がある。

 

現在の職場は30歳の春に入社した。長い期間在籍していた派遣会社の求人を目にした事がきっかけだ。求人記事の文面に “長期 自動車関連の工場” と明記されていた為、自動車に興味のあった私はその言葉に惹かれてメッセージを送った。

 

初出勤の日は2011年3月11日、東日本大震災の日だ。

あの震災を体験した事で “この職場で長く働く” と決意ができた。とは言えこの8年3カ月

もの間、様々な試練が訪れた。

 

外観検査の部署で、女同士のギスギスした人間関係に悩んだ。入社して3年程経った頃に、当時同じ部署に所属する準社員の先輩が後輩の派遣社員と結託したイジメに遭遇した、それは相当に陰湿な物だった。同じ班で一緒に仕事をしていた為、仕事中誰も気付かない所で意図的に仕事をしにくい様にしていた。

イジメに遭っていた当時は丁度父が癌の闘病をしていた時期と重なっていた。しかもかなり病状が進んでいた頃だった為、精神的にはどん底の状態だ。

 

“このままでは心が病んでしまう”

でもせっかく派遣社員から直接雇用で働ける様になるまで、不器用ながらも地道にコツコツと信用を積み上げて来て今がある。

 

“どうしたらいい…”

“続ける?それとも辞める?” 

その狭間で迷い続けて約2年程経った頃、突然思いもしない転機が訪れた。

測定の検査への部署異動の話が私の下に舞い込んできた。直属の上司から測定員の人出が不足している旨を聴き、所属部署から私ともう一人、ベテランの準社員に異動の話が来たのだ。この異動がきっかけで、私に対するイジメは完全に無くなった。

 

測定検査に異動して1か月程の研修後、実地での研修しながら仕事を覚える日々が始まった。しかし現実は測定のスキルがなかなか身に付かず日々悪戦苦闘していた、検査に関係する付帯作業は問題がなかったが、重要な仕事を任せられる機会が出てくる事もなくその分だけ苦しんだ。

気付いてみればいつしか、仕事に対しての情熱が薄れてきていた。それはかつての外観検査の頃とは違う意味での、迷いが生じている事へのサインに過ぎなかった。

来る日も来る日も書類整理とその合間に簡単な測定検査。そんな毎日の繰り返し、悪くはないがパッとしない日々だった。

そんなある日、新しく新設された測定の部署で外観検査を開始する事になり、外観検査経験者の私に直属の上司から応援の要請が入った。

測定検査で4カ月、そして新部署4カ月勤めた後に現在の部署に異動となった。

 

現在の所属部署は外観検査の中でも少人数で、私を含めて総勢10名で仕事をしている。毎日アットホームな雰囲気の中で働いている事に感謝の気持ちで一杯だ。

今の私の目標は “今の会社で10年働く” 事である。 そしてゆくゆくは一人暮らしをし、いつでもどこでも自由に文章を書く環境にしていこうと考えている。

東京へ母娘で旅行した件

“地元がド田舎と認識した日”

 

先週、前からの予告通り母と東京へ旅行に出掛けてきた。

 

とは言え、旅行当日は気持ちが落ち着かずソワソワとしていた。

 

おまけに、痛み止めの薬を飲んでも頭痛がなかなか治まらず、挙げ句の果てには何故かラジオ体操をし出す始末w

 

筋肉の凝りを解す事が大事と判断した上での行動だ。

 

前置きが長くなったが、そんなこんなで自宅近くのバス停から新潟駅前まで移動。

 

駅に到着してから、パンを購入して東京行きの新幹線の中で食べた。

 

新潟~東京まで新幹線で二時間少々で到着。

 

写真は二日目に丸の内まで行った記念に
       f:id:bluedestiny619:20190519181617j:image

その後、宿泊予定のホテルまで歩いて向かった。行く途中で曲がる筈の角を行き過ぎてしまい、到着予定時間を少しオーバーしたものの結局無事に到着。

 

ホテルの部屋に着いた頃には、歩き疲れてヘトヘト…脚が棒の様だった

暫しの間、部屋で休んでから外出した。

 

夕方の日本橋を母と二人で闊歩した。

 

コレド日本橋に寄って、一通り店内を廻って夕食をいただいた。

 

入ったお店のメニューが結構お高い値段だった。

 

正直言って震えた!

 

こんなに高いお店で食事をする機会が殆どない為、会計の時にはこの様な状態になった。

       ↓           ↓          ↓

((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 

一日目は平日と言う事もあり、街中ではビジネスマンの姿を多く見掛けた。(二日目の丸の内でも多く見掛けた)

 

足早に歩いていく人の流れに付いて行くのに一苦労。

 

エスカレーターに乗り込む人のペースに、必死で付いて行った感じである。

 

コレド日本橋と室町、両方立ち寄ってから高島屋に寄った。

 

途中で甘いものが食べたくなったと言って、母がコンビニでスイーツを買い、ホテルに戻ってから食べた。

 

その後、シャワーを浴び就寝。

 

二日目の朝、“寝相が悪い” と母に言われて少々凹むが支度を済ませて朝食を摂った。

 

そして二日目の行き先を決める。

 

まずはコーヒーを飲みに、ミカドコーヒーまで

モーニングセットの提供時間だった為、一番安いCセットを注文した。
f:id:bluedestiny619:20190526065822j:image


Cセットは下の写真の通り、パンケーキ付きだった。上のコーヒーの写真で写っているメープルシロップをかけて食する。

f:id:bluedestiny619:20190525215840j:image

朝からガッツリと食事を摂った後は、銀座まで徒歩で向かった。

 

早い時間だった為、まだ百貨店や有名ブランドのショップも閉まっていた。(そもそも寄るつもりも無かった)

 

“今、この銀座の地にいるんだ” と噛みしめながら銀ブラしてきた。実は行ってみたい美術館が銀座にあるが、9月のライヴ参戦の前に立ち寄る予定だ。

 

“銀座で買い物すると高くつく” イメージもあって、結局東京駅まで行く事になった。

 

新幹線の出発時間までの間お土産を購入し、昼食も少し早めに済ませて、丸の内北口まで向かった。

 

丸の内オアゾMARUZENに入り、遅ればせながら母の日のプレゼントを選んだ。

 

母が素敵なトートバッグ見つけたので、それを購入した。

 

あ、今回の旅で食べ物以外で自分の物を買っていない←おいw

 

その分、9月に買い物してくるんだ!

 

それにしても、今回の東京旅では都会のスピード感と人だかりをよりリアルに体感して来て。

いや~…私、自分の地元が田舎と言う自覚はかなり持っていたが。実際に蓋を開けてみたら、それを通り越して “ド田舎だったわ” と確信した。

 

9月までには都会仕様にして、ライヴ参戦してくる。勿論、その際には買い物も楽しんで来る!

 

見知らぬ土地に恋して

“私が旅に出る理由”

 

未だ見た事のない世界を見たいから

 

一言で纏めるならば、そんな感じである。

                   ↑               ↑               ↑                     

とは言えこれだけで終わってしまうのは、(たったの三行だけw)あまりにも短過ぎるので詳しく綴ってみる。

 

私は子供の頃から飽きっぽいのか、音楽やら漫画・本の趣味趣向が定まらなかった。

あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてばかり。

 

自分軸が定まっておらずブレブレの状態www

 

私の心に絶大なインパクトを残す程の物は、なかなか見つからずにいた。

 

20代の後半までは…←それは音楽の話だろ!

 

ではなく、今回は旅行の話。←前置き長っ!(突っ込み2度目)

令和初の更新も通常運転w

 

昨年の秋までは、一人旅をした事がなく誰かと一緒(家族・親戚)だった。

 

都会に行きたいと思っていても、自分の好きな所を伝えたら却下されると思っていた。

 

まぁ、そもそも旅行自体ほとんど行く機会が無かったが。

 

話を元に戻そう

 

生まれてこの方30数年間、新潟の外から殆ど出た事の無かった私。

 

県外に行きたい所が在っても、なかなか行く事は叶わなかった。

 

本当は “田舎に飽き飽きしている” にもかかわらず、だ。

 

このゴールデンウィークの休暇で、ハッキリした事象である。

 

やっぱり田舎過ぎる場所は私には無理!!!!!

 

車を運転している時、不安しか出て来ないし挙げ句の果てには挙動不審になる。

((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 

もうダメだ…

 

とは言え、都会過ぎても疲れる(のか?)

 

まだ確認出来ていない部分が多いので、この辺りは今月の旅行で実証実験する予定だ。

 

 

一体 “何処で暮らすのが最適なのか” を模索する為ではないが、直感で “ここだ!” と思った場所に行き、その雰囲気をしばらく体感してから住むなんてのもありかもしれない。

 

 

 

“人生は思い通りになる” と信じて進め

“自分と向き合う度に自分の本音に気付く”

 

もうすぐ平成が終わり新元号 “令和” に変わる

 

平成最後なんて言葉ももはや “使い古された感” しかないが、それにしても30年間長いなぁ~。

 

平成に変わって直ぐの頃に小学2年生(その年の4月から小学3年生)の私も、初老と呼ばれる年齢に近づいている訳だ。

 

個人的には “平成最後” よりも、私自身の “30代最後” の方にしか関心がない←酷いw

 

元号の予想とか、さほど関心持ってなかったw

 

何故かって?

それは選者がセンスよく選定する事だろうから

お任せで♪ 

 

第一、そんなものを素人が勝手気ままに予測するとか狂気の沙汰だ。

 

ここまで元号の話ばかりになるとは…

 

いざ “令和” 元年が始まったら、“昭和” なんぞはかなり “古く” 感じるのだろうか?

 

世にも恐ろしい…←昭和生まれが言う台詞かw

 

この新たな元号の新しい時代、“自分の思う様に生きる” そしてそれは必ず実現すると確信している。