愛と自由を携えて生きる

新潟生まれの新潟育ち。工場勤務兼作家志望のアラフォー女子が、 “自分らしく生きる” 事を探究する様子を綴るリアルなライフログ

現在の職場で働き続けるまでの “迷い” と “決断”

文章を書く事が好きな気持ちを持ちつつも、何処かの会社に就職して欲しいと言う両親の期待に応える為に、高校卒業後はビジネス専門学校の一年制学科に進学した。

 

新潟の田舎町に生まれ育ち、冬場は白鳥が飛来する土地に今も住んでいる。

“いつかこの街を出ていく” と私は物心ついた頃からそう思っていた。小学校時代からイジメに遭っていた影響が強い事もあるが、もともと地元にあまり関心を持っていなかったと言うのが一番の理由だ。

 

そして社会人になってからも、その当時の体験が尾を引いたまま自分自身を受け容れられずに30年以上の時を生きてきたのだ。

 

19歳で専門学校を卒業するまでに就職が決まらず、ハローワークに通い就職活動を続けてやっと20歳になる前に仕事が決まった。

初めの職場は地元の町工場で、デジタルカメラの部品の製造に関わっていた。

 

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20代の頃はとにかく目の前にある課題をこなすだけで精一杯。余裕なんて全く感じられずに、毎日がいっぱいいっぱいの状態で過ごしていた。

 

いつも時間に追われて慌ただしく生きていた。

だが次第にひっきりなしに、物事に追われ続ける生活を送り続けている日々。年齢を重ねて来て自分のこの会社員生活をふと振り返ってみた時に、徐々に疲れを感じていることに気付き始めた。

 

若かりし頃は力を抜く事も知らずに、全力疾走し過ぎてほぼ満身創痍だった。基本的には性格は気分屋でかなりムラがある質だが、一度決めるとひたすらに突っ走ってしまう癖がある。

 

特に20代の中頃に転職したブラインドの製造工場に正社員で勤務していた当時、働きづめの日々だった。その職場では有給休暇がなかった。

 

当時の職場で働き始めて一年程経ってから、アレルギー性鼻炎を発症した事が判明。同時に副鼻腔炎を併発していた為、受診した耳鼻科にそのまま通院する事になった。

 

その後、耳鼻科に通院する為に早退する際は “忙しいので戻ってくる様” にと指示が来る程、毎日夜遅くまで残業している職場だったのだ、だが絶対に戻らなかった。

 

逆にこの時間を使って “ゆっくりと過ごしていよう” と思った程である。職場の人間関係はさほど悪くはなく、仕事自体にもやりがいを感じていたのだ。だがそれ故に “退職するか仕事を続けるか” 悩みもしたのだ。

 

悩んだ末にこの職場を去ると決断した。退職する旨を伝えた際、社長の息子から “社会不適合者” の烙印を押された私。

 

それから30代に入るまでは派遣社員として派遣先を転々としていた。 派遣社員時代は契約期間が終了する度に、次の仕事がいつ決まるかと心配は尽きなかった。契約期間が短い仕事が多い上に、次の派遣先がなかなか決まらず無職の期間も度々あった。そんな状況だった為に定職に就く事が難しく、貯金が底をつきそうになる経験もした。

 

派遣先は食品の製造工場での勤務が多かった、惣菜・きのこ栽培・米菓・餅。きのこ栽培と餅はそれぞれ違う派遣先で二度働いた。

食品以外では、ワクチン製造工場・ロールスクリーン製造・石油ストーブの部品製造等の派遣先で働いた経験がある。

 

現在の職場は30歳の春に入社した。長い期間在籍していた派遣会社の求人を目にした事がきっかけだ。求人記事の文面に “長期 自動車関連の工場” と明記されていた為、自動車に興味のあった私はその言葉に惹かれてメッセージを送った。

 

初出勤の日は2011年3月11日、東日本大震災の日だ。

あの震災を体験した事で “この職場で長く働く” と決意ができた。とは言えこの8年3カ月

もの間、様々な試練が訪れた。

 

外観検査の部署で、女同士のギスギスした人間関係に悩んだ。入社して3年程経った頃に、当時同じ部署に所属する準社員の先輩が後輩の派遣社員と結託したイジメに遭遇した、それは相当に陰湿な物だった。同じ班で一緒に仕事をしていた為、仕事中誰も気付かない所で意図的に仕事をしにくい様にしていた。

イジメに遭っていた当時は丁度父が癌の闘病をしていた時期と重なっていた。しかもかなり病状が進んでいた頃だった為、精神的にはどん底の状態だ。

 

“このままでは心が病んでしまう”

でもせっかく派遣社員から直接雇用で働ける様になるまで、不器用ながらも地道にコツコツと信用を積み上げて来て今がある。

 

“どうしたらいい…”

“続ける?それとも辞める?” 

その狭間で迷い続けて約2年程経った頃、突然思いもしない転機が訪れた。

測定の検査への部署異動の話が私の下に舞い込んできた。直属の上司から測定員の人出が不足している旨を聴き、所属部署から私ともう一人、ベテランの準社員に異動の話が来たのだ。この異動がきっかけで、私に対するイジメは完全に無くなった。

 

測定検査に異動して1か月程の研修後、実地での研修しながら仕事を覚える日々が始まった。しかし現実は測定のスキルがなかなか身に付かず日々悪戦苦闘していた、検査に関係する付帯作業は問題がなかったが、重要な仕事を任せられる機会が出てくる事もなくその分だけ苦しんだ。

気付いてみればいつしか、仕事に対しての情熱が薄れてきていた。それはかつての外観検査の頃とは違う意味での、迷いが生じている事へのサインに過ぎなかった。

来る日も来る日も書類整理とその合間に簡単な測定検査。そんな毎日の繰り返し、悪くはないがパッとしない日々だった。

そんなある日、新しく新設された測定の部署で外観検査を開始する事になり、外観検査経験者の私に直属の上司から応援の要請が入った。

測定検査で4カ月、そして新部署4カ月勤めた後に現在の部署に異動となった。

 

現在の所属部署は外観検査の中でも少人数で、私を含めて総勢10名で仕事をしている。毎日アットホームな雰囲気の中で働いている事に感謝の気持ちで一杯だ。

今の私の目標は “今の会社で10年働く” 事である。 そしてゆくゆくは一人暮らしをし、いつでもどこでも自由に文章を書く環境にしていこうと考えている。