愛と自由を携えて生きる

新潟生まれの新潟育ち。工場勤務兼作家志望のアラフォー女子が、 “自分らしく生きる” 事を探究する様子を綴るリアルなライフログ

大きな転換期に突入

“あんたの事、信用して良いのか悪いのか分からない…”
 
 
母から言われて疑問に思った一言だ。
 
 
数年前ならば同じ言葉を言われたら、悲しさのあまり落ち込んでいた。
そして、 “全部自分のせいなんだ、自分が悪いんだ…” といたずらに自分自身を責め立ててしまい悲しみに暮れていた。
 
 
けれども今は違う。
 
 
“信用するって、何よ?” “そもそもあなたにとって信用するって何?” と逆に訊きたくなる。
 
 
このブログを更新する前に、もやもやと気になっていた事だ。
 
 
先日、やっとの事で参加したセミナーの場でこの疑問が湧き出た理由に気付いてしまった。
 
 
午後からのリメンバランスセミナー(心のデトックス)の終わり頃、(瞑想の後)にある答えに辿り着いた。
 “私は家族の事(母と兄)を信用していなかった” 
 
 
そんな気持ちを抱いていた自分に気付いた瞬間、何故か不思議な程にスッキリしていたのだ。
 
 
“誰かの為に良いやつになんかなってやらない!”
 
一度きりの自分の人生、自分の為に生ききると。自分が心からしてみたい事をして生きて行くと…

魂の双子は此処に居た

今年は喪中の為、年賀欠礼のはずが
私がお知らせするのを全く忘れていた為、普通にご挨拶をされる方々がたくさんいて慌てている私。
 
 
新年早々申し訳ございません。
 
 
先月に父を見送って以降、心にぽっかりと穴が空いた感覚を覚える様になった。
 
 
最近は、ふとした瞬間に居たたまれなくなる程の不安な気持ちに襲われる事も出てきたのだ。
 
 
そんな時、 “誰か側に居て欲しい” と思うのだ。そしてその相手には “どんな状況でも信頼してくれる人” を求めている。
 
 
私には今、かけがえのない大事な人がいる。
昨日は思いがけず、その相手と初詣に行く事になった。(私は喪中の為、お守りだけ入手)
 
 
現地集合してから、またそれぞれ解散したけれど、ほんの僅かな時間だけでも逢うことができて幸せいっぱいである。
 
 
 
私の大好きな小説から引用しよう
 
(石田衣良の小説「REVERSE 」 より)
 
 
“よくいうじゃないか、運命的に結ばれる相手のことを魂の双子なんてさ”
 
 
 
“わたし、恋愛ってこの星のうえにいる無数の相手のなかから、魂の双子を探し出すようなものだと思うの。好きな顔も、好きな身体も、好きな仕事や頭脳だって、確かにあるよ。条件も好みも無数にある。でも、なにより大切なのは、やっぱり魂の形だよね”
 
 
 
 “魂の双子” とは何と素敵な表現だろうか…
この部分に目を通す度、いつもそう思うのだ。
 
人生において出会う人の数には限りがある。
 
 
自分の心の声に耳を傾けて人と逢う時、もしくは逢った後、自分自身にこう問い掛けている
 
 
“魂の双子はこの人だろうか?” そして、 “魂の形がフィットする人だろうか?” と…
 
 
けれども、少し心残りな点が…
余談だが当日は
集合時間までまだ余裕があるにもかかわらず、一張羅に着替えず普段着で逢いに行ってしまったのだ
 
せっかく大好きな人と逢うチャンスなのに、こんなところで痛恨のミス…
 
 “可愛くして行けば良かった” と言うと、“そこまで気を遣わなくても” と言う風に言われてしまい、更に残念な結果になってしまった。
 
 “違~う!そんな事を言って欲しいんじゃないのに~” (泣)
と言うのが私の本音(悲)
 
 
 
生きている限り、問答は尽きない。
 

信念を持って真実に向かう年に


昨年は今までの人生の中で、一番変化の多い一年となった。


・家族との関係
・パラレルキャリア
・パートナーシップ


この3つを深く考える機会を何度も与えていただいた様に感じている。

昨年の一年間程、自分自身の生き方についてここまで真剣に向き合う事はなかったかもしれない。


話は変わるが、今年は昨年参加できなかった、セミナーに早速参加する予定でいる。


セラピストとして、自分の感情と逃げずに向き合うと決めた私。今、この時が本当の意味でのスタートなのだと感じている。


きっかけは昨年の秋に参加した瞑想のワークショップの場で “自分=宇宙” との言葉に目から鱗が落ちた…


人間も宇宙の一部なのだと知った私は、それ以降瞑想を意識的に行っている。


そのワークショップでおこなった瞑想とは、発散(開放)型瞑想と呼ばれる方法で、意識を外に置いておこなう方法である。


補足:皆が言う所のいわゆる “瞑想” と言うのは集中型瞑想と呼ばれている
(呼吸・マントラ・蝋燭の火等…
ある一点に集中しておこなうものである)


なぜ人間が瞑想をおこなうのか?と言うと、自分が宇宙の一部である事を思い出すためである。

そしてそれは自らの五感 (視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚) をコントロールする事によって訪れるものと教わったのだ。


五感の中でも、視覚・聴覚の部分をコントロールして、ただその時が訪れるのを待つ。
考えが頭に浮かんでも外へ投げ出してひたすら没頭する。

 “ゼロサイクル・セミナー” と “リメンバランス・セミナー(心のデトックス)” の二本立てを丁度1週間後に学んでくる。


今年の抱負

“ありのまま そのままの自分で行こう”

新たな時代と変容

8月の末頃からFacebookがきっかけで繋がった方から、カードセッション・カラーセラピーなど様々なセッションを受けている私。

 

“現状を打破したい!” “何とかして手掛かりをつかみたい!” 

 

人の力を借りて、自分自身のざわついた心と向き合う機会を作って

“何とか前へ進んで行きたい!”

 

今は愚直なまでに自問自答を繰り返して、思想の構築を図っている最中だ。これもきっと私にとって必要な事なのだと、そう思って取り組んでいる。

 

自分の中に出来湧いてきた感情も、見て見ぬふりはせず丁寧に見つめて行きたい。

 

過去の私は “自分のやりたいこと” よりも、 “親や周りの人の目” を優先して生きていたのだ。

 私の基本的性格は過去のブログから

 

bluedestiny619.hatenablog.com

 

 やりたい事をしつつ親の期待にも応えようとしていた私。けれども年齢を重ねていくうちに、結婚の二文字を強く意識せざるを得ない状況になっていったのだ。

 

なにしろ同級生ならびに年の近い知人達は、次々と結婚していくものだからある意味仕方のない事ではあるけれど(こればかりはご縁あるかどうかの問題もあるので)

 

いつしか周りの人間に影響されて “そろそろ相手を探した方がいいかな…”

 などと漠然と考え始めていた。

 

と、結婚・恋愛の話題はここまでにして(汗)

 

仕事に関しても家族の事を意識して、“出来る限りたくさん稼いでくる” そして金銭面でも “今まで借りていた分を早く返して欲しい” という母の思いを汲んで、“自分の本意ではなかった” 夜勤の仕事に就いた時に心に異変が生じたのだ。

 

幸いにして当時鬱病に罹っていた従姉妹の掛かり付け医(心療内科)のお世話になりカウンセリングと安定剤を処方されたのだ。

 

結果的に職場を退職し、すぐに次の職場も決まった上に早い段階で安定剤を止めても普通に生活できる様にもなった。

 

きっと20代前半の頃のメンタルのままでいたならば、ここまで早く立ち直る事はできなかっただろう

なぜなら、それ以前の私は非常に被害者意識が強く何かにつけて他人のせいにして生きていたのだ。

 

話がだいぶ逸れてしまったが、この経験がきっかけで自分自身の心の声に耳を傾ける事。その部分を意識する様になったのだ。

 

私が大事にしている事

・音楽を聴く、歌を歌う(主にロック)

・読書(色彩心理の書籍、自己啓発本等)

・美味しい物を食べる(最近、量を減らす様に意識している)

 

主にこの点を重要視しているのだ。

 

とは言え、一応(←コラ!)女子なので。見た目の事(服装、メイク等)も気になるので、そちらもそろそろ(汗)本格的に手を付けておかないとマズイ(大汗&焦燥感)と危機感さえも感じている。

 

誰かが作った “常識” なんてものに囚われている時代じゃないのだ。

そんな呪縛に囚われ、大きな権威の流れに飲まれて、しがらみに絡め取られて生きる気力を失っている人間が多いのではないかと思えてならない。

 

現代はそこから脱するために、あれこれと模索していかないと生き残れない時代だと私は感じている。

 

“パラレルキャリア” という言葉が登場したのも、そんな世相を反映したものではないかと…


そんな、新しい時代の生き方。“はたらき” 方へと私も徐々にシフトしていきます。

愛と自由で性別さえも越えていく

“男らしく”  “女らしく” という言葉。

 
 
周りの人間は何も考えず、ごくごく簡単に口にする。この言葉に私は非常に違和感を感じるのだ。
 
 
本当に重要なのは男女の性差なんかじゃない。
 
 
“その人個々人がどの様に生きていくか” 
“人としてどう在りたいのか” 
“どんな風に人と関わって行きたいか” 
 
 
それが一番重要なのではないか?と常々思っているのだ。
 
 
例えば、私の場合は女のわりには男性的な部分がかなりある方だと思っている。
実際には男女問わず男性性・女性性は持ち合わせている訳だし。
 
“愛” を以って目の前の人を見る事が出来るか
大事な事はその人 “らしさ” 
 
最近起こったエピソード
 
 
 その1
 
本業の仕事(自動車部品の外観検査)中に若い新人の派遣社員と一緒に製品の上げ下ろしをした時に  “男らしい!”  と言われてしまった(汗)
 
 
 ここまではっきりと人に言われた事は今までなかったので、一瞬固まってしまった。けれども時間が経つにつれて、なぜか笑ってしまっていた。そして “男前” な自分自身を笑い飛ばした。
 
まあ、可愛い20代の女子に悪気無く言われる位ならさほど気にならない。
 
 
 
その2
 
数日前四年間の闘病生活の末に、父が亡くなり通夜と葬儀を終えた。
親戚と父の友人が一同に会した。
その際に一番困ったのが親戚ならびに、父の友人達からのこんな言葉だった。
 
“結婚はまだなの?” (ほっといて!) 
 
“相手紹介しようか?” (余計なお世話!) 
 
“もう少し女らしくしなさい!” (自分らしくなくなるので苦しくなる上に、とても疲れる)
 
 
四歳年上の兄も独り身なので、同じ様な話題を振られたのだが、男性の場合は女性と比べてそれほど突っ込まれる事はない様に感じる。
 
 
オッサンオバサン(失礼!)親戚・父の友人からの “セクハラ”まがい(というか半ば人権侵害)な発言に正直なところ辟易した。
 
 
何しろ私は、35歳未婚(当然ごとく子供なし)相手はいるにはいる、告白もしたが返事をいただいていないので付き合っているのかどうか分からない感じ。
 
 
私の個人的な意見
 
 
もはや “結婚=幸せ” と言う図式などもはや過去の物。常識なんて言う何処かの誰かが勝手に作り上げた鋳型に嵌め込むなんて、もはや現実的じゃない。
 
 
結婚で失敗する人もいるし、シングルでも周りの人に恵まれて、幸せに暮らしている人もいる。
そもそもお付き合いをする相手が、必ずしも異性とも限らない(LGBTを積極的に支持するわけではないけれどそんな形もある)
 
 
“それで皆が幸せを感じられるか?” と言えば、必ずしも当てはまるわけではないのだから。

それでも人は誰かを好きになる

 カラーセラピストとして生まれ育った新潟の地で起業すると決意した私。

 

それまでは、当時付き合っていた相手の傍らで小さくてもいいから “起業できたらいいなぁ…” と言う、曖昧で漠然とした意識しか持てなかったのだ。

 

けれども、その相手とは結局別れを決めてセラピストとしての起業に専念する事にしたのだ。

 

参考:アメブロの過去記事

ameblo.jp

あらゆるしがらみを手放して自分らしく生きていきたい…

 

自分にとって本当に必要な人、自分の事を心から大事に思っていてくれる人だけ、傍に残っていて欲しい。

 

そしてその人達を自分自身と同じ位、大切にして生きていきたい。

 

ただそれだけ。

 

それは恋愛においても同じだと感じている。

 

今、とても好きな人がいる。

 

その相手は自分と同じ起業家。年も近く偶然にも地元が一緒という事で意気投合した。

 

起業家の同士として、そして地元の先輩としても尊敬できる人。

 

子供時代の話から、家族の事など安心してたくさん話ができるとても貴重な存在なのだ。

 

普段から大人の男性らしい知性と優しさを醸し出していて、見ていてとても安心できる。

 

ただし、当の本人はそんな自覚が全くないらしく…(そこが残念!)

 

まだ延びる素質も充分にあるので今後が楽しみ

ワクワクしながら妄想して生きて行く

自分の心を見つめながら人の心を見て行こうと意識して生活している私。

 “人は鏡” を日頃から頭に置いて人と向き合っている。

 

例えば、自分自身が何か悩み事を抱えている時に他人と関わっていると、相手も同じ様な悩みを今まさに抱えているところだったと言う事実に気付いた時。

もしくはその反対で、自分自身の心境がとても上向いている時には相手の心境も同じように上向きで、自然とお互いの心境が更に高まってくる。

 

この時、自分と相手との間に善き循環が起こって来るのだ。

 

話は変わるが、最近自分の心と体の両方ときっちり向き合って行こうと様々なセミナーに参加して実践に移している。

今年に入ってから “エネルギー” というキーワードがところどころで登場し、その部分を意識せざるを得ない状況になってきた。

 

“量子物理学” “ゼロ磁場” “U理論” “引き寄せの法則” etc.

 

意識エネルギーを使って自分自身、より善く生きて行きたい!

 

そのためには、 “こうなったらいいな” とワクワクした気持ちで妄想をして生きて行く事が必要。

その点に関しては、妄想狂の私にとっては得意分野(笑)

 

最後に、しつこい様だけどもやっぱり “実践” が必要不可欠!