愛と自由を携えて生きる

新潟生まれの新潟育ち。工場勤務兼作家志望のアラフォー女子が、 “自分らしく生きる” 事を探究する様子を綴るリアルなライフログ

信頼できるかは、心を開けるかどうかでもある

“話を聴く” という行為。

 
 
言葉だけを取ると簡単な様に見えがちなこの行為の裏にも、実はかなりの労力ならびに集中力が使われている事に着目してもらいたい。
 
 
私の周りには、 “話を聴く事” を仕事にしている方も多い (コーチング、カウンセリング、セラピー等) 
私自身も将来的に “話を聴く事” を仕事にしていきたいと考えている。
今、その “聴く力” のブラッシュアップを図っている最中である。
 
 
たかが、“聴く” と侮ってはならない。この行為を蔑ろにしている人を私はよく見掛ける。
 
 
その様子を見るにつけ、私は心が痛むのだ。
 
 
“決め付ける” “ジャッジする(裁く事)” “誤解、曲解したまま放置”
 
 
上のこれらが話を聴くときにやってはならない事
 
 
“話を聴く” この行為で救われた内の一人として、声を大にして言いたい。
 
 
ジャッジ、決め付け、誤解・曲解は人を傷付ける。(マジで!)
 
 
私もしない様に、ならない様に精進していきたい。

U ·T· K を意識して肚の感覚を感じる

今年から本格的に取り組んでいる、リメンバランス(旧:心のデトックス)セミナー。


自分自身の感覚・感情に向き合うと決めて日々を過ごしている。


日常的に何時でも何処でも取り組める為、理論だけに留まる事なく実践しやすいところが魅力的だ。


U · T · K (嬉しい・楽しい・気持ちいいの頭文字)
この感覚を思い出して、肚の感覚を感じる事。そこに集中するのだ。


そして意識を外に置いて、自分自身の肚の感覚がどの様な感じかを観ていく。


セミナーの中で、 “感情のエネルギーは肚に溜まる” との言葉が出てきた瞬間、 “今まで学んできた事とも合致する!” と直感的に頭で考えるよりも遥かに速く理解できたのだ。


チャクラで表すと、肚の部分はちょうどオレンジ色。オレンジには感情的な代謝を促す作用もあるのだ。


精神的なショックを受けた時には、それを吸収する効果もある。


追記:オーラソーマのボトルで、ハンプティダンプティと言う上下共にオレンジのボトルがある。


感情エネルギーを十分感じながら、スッキリと手放していく。


そして頑張らずに楽に生きていきたい。

スピリチュアルな女王様

2月に入ってから、セラピストとしての活動を再開するにあたって起業に関するセミナーに参加してきた。

 
 
自分の “強み” を発掘するものと、“4つのポジショニング” のセミナー。
この2つのセミナーを、休暇を取って参加したのだ。
 
 
おっと…話が逸れてしまった(汗)
 
(せっかくなんだから、それはアメブロで書けよ~)
 
 
先月はFacebookで繋がりのある友達が出店しているイベントに、再び顔を出す様になった。
 
 
その日は、朝活の後イベント2ヵ所回ってきた。最初に立ち寄ったイベントの会場で友達の一人が、マヤ暦占いで出店していた為試しに受けてみた。
 
 
その結果、女王様キャラだという事が判明した(苦笑)まぁ、今までも度々言われていた事ではあったけれど…
 
 
きしくもイベントに向かう前に参加した、朝活の場で主催者に対して、プライド高く女王様の対応をしてしまった。
 
 
それだけに今回のこの占いの結果は、精神的ダメージが相当キツかった(汗)
 
 
後は、スピリチュアルな方向に向いていると言われた私。(これも最近よく言われる事のひとつ)
 
 
つい先日も数秘術とカラーを組み合わせたセッションを受けてみたところ、そこでも “スピリチュアル” の文字が…
 
 
どうやら私は、“スピリチュアルな女王様キャラ” に落ち着きそう(汗)
 

競争原理の放棄から共生する社会へ

もう闘いたくない!誰かと争って心を磨り減らしたくない


家族ならびに親族から、(悪い意味で) “変わった” と言われて心にチクリと棘が刺さったままだ。


自分自身が “やりたい!” と思った事


・カラーセラピストとして起業して、将来的に独立する事

・ブログで綴った文章をまとめて、書籍として形に表す事


自分がその時その場で感じた事を、カラーセラピーのセッションやブログという形で具現化して表現し続けていきたい


と、最近そう思い至ったのだ。


今までの私は周りに気を遣い過ぎていたのだ。正直言って非常に疲れている


そして労力を使っているわりには、相手から必ずしも恩恵を受ける訳でもない


誤解が無いように言っておくが、べつに単純な損得勘定で言っているわけではない。


感情的な面での労力を出来る限り、有効に使って行きたいと考えているのだ。
もっと言ってしまうと、心から自分の事を気に掛けて下さる方の為に全力を注いでいきたい。


人と会って話をする度に、そんな思いを巡らせている私。


私にはお一人お一人に正面からしっかりと向き合う方が性に合うのかもしれない。


セラピストとして再び活動を再開するに当たって、どこから手を付けようかとまたも迷っている。


それと平行して、自分の感じた事をこのブログで引き続き綴って行きたい。


私はクリエイティブな方向にエネルギーを使う使命があるようだ。


歌を歌う、文章を書く(一時期は絵も描いていた時期もあった)事がとにかく楽しくて仕方がなかった。


心で感じた事を今まさに、表現したくてウズウズしているのだ


“やるか?やらないか?”

“やるしかないでしょ!”


活動を休止してからほぼ放置状態のアメブロも、そろそろ再開させようと計画中である。
(別アカウントを作ろうか悩んでいる)


※あくまでこのブログは個人的なブログです

ただその一瞬一瞬を感じて

“自分の感覚・感情を感じて、嘘偽り無く正直に生きる”

 
 
その為に私は様々な事に取り組んできた。
 
 
・書籍等から学んで、実践に移す
 
・各種セラピーのセッションやカウンセリング、コーチングを受ける
 
・人と会って話をして聴いてもらう(時折、私も話を聴く)
 
等々、何度と無く繰り返して来た。
 
 
それでも突然、前触れも無く訪れる不安は拭えなかった。どの様に対処をすれば良いのかが分からずに怯えていた。
 
 
ただ単純に怖かったのだ。
 
 
目の前の事に集中して取り組んでいるうちは、その一時だけ気を紛らわしていられる。
 
30代も後半になると、どうした訳か20代の頃よりもある部分で臆病になってきているのだ。欲しいものの大体を手に入れているからなのか、守りの体制に入ってしまっている。
 
 
“せっかく手に入れた大事な物を失いたくない!”
 
物を所有する事の代償として、襲ってくる不安感。私は知らず知らずの内にその呪縛に囚われていたのか…
 
 
“経済最優先” “金銭至上主義”…
 
 
今このブログを書いている途中で、“いつの間にか、そんな時代の風潮に飲まれていた” 事に気付いてしまった。
 
 
所有する事に慣れてしまった世代を中心に、 “ミニマリスト” を志向する人が増えている。
 
 
昨年から自分にとって必要な物と、必要の無いものは何かを日々問い掛ける様になり。今では考える事が、少しずつ習慣化されつつある。
 
 
年齢を重ねるってちょっと恐ろしくもあり、可笑しくも感じる。
 
 
今振り替ってみると、“20代の頃の私って、結構怖いもの知らずだったんだな~” (苦笑)
 
 
取り敢えず、トライ&エラーで突き進んで行こう。
 
 

大きな転換期に突入

“あんたの事、信用して良いのか悪いのか分からない…”
 
 
母から言われて疑問に思った一言だ。
 
 
数年前ならば同じ言葉を言われたら、悲しさのあまり落ち込んでいた。
そして、 “全部自分のせいなんだ、自分が悪いんだ…” といたずらに自分自身を責め立ててしまい悲しみに暮れていた。
 
 
けれども今は違う。
 
 
“信用するって、何よ?” “そもそもあなたにとって信用するって何?” と逆に訊きたくなる。
 
 
このブログを更新する前に、もやもやと気になっていた事だ。
 
 
先日、やっとの事で参加したセミナーの場でこの疑問が湧き出た理由に気付いてしまった。
 
 
午後からのリメンバランスセミナー(心のデトックス)の終わり頃、(瞑想の後)にある答えに辿り着いた。
 “私は家族の事(母と兄)を信用していなかった” 
 
 
そんな気持ちを抱いていた自分に気付いた瞬間、何故か不思議な程にスッキリしていたのだ。
 
 
“誰かの為に良いやつになんかなってやらない!”
 
一度きりの自分の人生、自分の為に生ききると。自分が心からしてみたい事をして生きて行くと…

魂の双子は此処に居た

今年は喪中の為、年賀欠礼のはずが
私がお知らせするのを全く忘れていた為、普通にご挨拶をされる方々がたくさんいて慌てている私。
 
 
新年早々申し訳ございません。
 
 
先月に父を見送って以降、心にぽっかりと穴が空いた感覚を覚える様になった。
 
 
最近は、ふとした瞬間に居たたまれなくなる程の不安な気持ちに襲われる事も出てきたのだ。
 
 
そんな時、 “誰か側に居て欲しい” と思うのだ。そしてその相手には “どんな状況でも信頼してくれる人” を求めている。
 
 
私には今、かけがえのない大事な人がいる。
昨日は思いがけず、その相手と初詣に行く事になった。(私は喪中の為、お守りだけ入手)
 
 
現地集合してから、またそれぞれ解散したけれど、ほんの僅かな時間だけでも逢うことができて幸せいっぱいである。
 
 
 
私の大好きな小説から引用しよう
 
(石田衣良の小説「REVERSE 」 より)
 
 
“よくいうじゃないか、運命的に結ばれる相手のことを魂の双子なんてさ”
 
 
 
“わたし、恋愛ってこの星のうえにいる無数の相手のなかから、魂の双子を探し出すようなものだと思うの。好きな顔も、好きな身体も、好きな仕事や頭脳だって、確かにあるよ。条件も好みも無数にある。でも、なにより大切なのは、やっぱり魂の形だよね”
 
 
 
 “魂の双子” とは何と素敵な表現だろうか…
この部分に目を通す度、いつもそう思うのだ。
 
人生において出会う人の数には限りがある。
 
 
自分の心の声に耳を傾けて人と逢う時、もしくは逢った後、自分自身にこう問い掛けている
 
 
“魂の双子はこの人だろうか?” そして、 “魂の形がフィットする人だろうか?” と…
 
 
けれども、少し心残りな点が…
余談だが当日は
集合時間までまだ余裕があるにもかかわらず、一張羅に着替えず普段着で逢いに行ってしまったのだ
 
せっかく大好きな人と逢うチャンスなのに、こんなところで痛恨のミス…
 
 “可愛くして行けば良かった” と言うと、“そこまで気を遣わなくても” と言う風に言われてしまい、更に残念な結果になってしまった。
 
 “違~う!そんな事を言って欲しいんじゃないのに~” (泣)
と言うのが私の本音(悲)
 
 
 
生きている限り、問答は尽きない。